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1975年、兵庫県生まれ、長野県在住。1999年、京都造形芸術大学卒業。アーティスト名の束芋は、本名が田端で、次女であったことから「田端の妹」略して「タバイモ」と呼ばれていたことに由来する。1999年、大学の卒業制作で手がけたアニメーションによる映像インスタレーション『にっぽんの台所』が、「キリンコンテンポラリー・アワード1999」にて最優秀作品賞を受賞。2001年、「第1回横浜トリエンナーレ」に最年少で出品。以後、2002年「サンパウロ・ビエンナーレ」、2006年「シドニー・ビエンナーレ」、2007年「ヴェネツィア・ビエンナーレ」(イタリア館)など、数々の国際展などに参加。2006年には、原美術館、パリのカルティエ現代美術館で個展を開催。
Contact 横浜美術館(〜3月3日) Address:神奈川県横浜市西区みなとみらい3-4-1 Tel:045-221-0300 URL: www.yaf.or.jp/yma/ E-Mail:www.yaf.or.jp/yma/contact2.html |
通勤電車、銭湯、便所など、日本を象徴する身近な場所。そこに登場する無名の人々がつくり出す現代社会の諸相を手描きのアニメーションで表し、さらに映像インスタレーションによって、観客に身体的な体験を促す束芋。その空間に入った私たちもまたその一員となり、自身の内と外の世界を見つめることになる。デビューから10年、国内の公立美術館では初めての個展『束芋:断面の世代』が開催中だ。「断面の世代」とは、30代半ばの束芋が名付けた世代観であり、本展は、社会の断面と個人の断面が向き合い、入れ子状に見えてくる空間構成となっている。横浜美術館に足を踏み入れた瞬間から始まる、すべて新作の束芋ワールド。それは、世代観になぞらえた世界の捉え方の提案でもあるだろう。作家に話をうかがいながら、自分の立っている場所から感じられることを足がかりに、展覧会をたどってみたい。
Text:白坂ゆり
今回のテーマである「断面の世代」について教えてください。
団塊ジュニアと呼ばれる70年代生まれの私の世代を、「団塊の世代」に対して「断面の世代」と勝手に名付けてみました。大きな塊になることによって、世の中を動かし、影響を与えてきた団塊の世代に対し、私たちは「個」にこだわり、あるいは尊重し、それぞれの小さな差異にスポットを当てるという傾向があると思います。太巻に例えると、団塊の世代は、社会を1本の太巻きとして、「私の役割はかんぴょうだ」「私の人生はキュウリだ」といった具合に、個人はその中の具の一つと考え、海苔のようなまとめ役もいるのですが、断面の世代は、個々人はいろいろな具を持った(と思っている)太巻きの一切れであり、世界が自分の中に閉じていると考えている。そのため、まとまらないんだけど、世代としての意識はあり、塊のエネルギーに密かに憧れも抱いているようにも見えます。とすると、親とその子ども世代は対立しているように見えますが、実は向かっているところは共通しているんじゃないかと思うんです。
なるほど、太巻きとは(笑)。エントランスの『団地層』と中央の部屋の『団断』に見られる「団地」のモチーフが象徴的ですね。
豊田商事会長刺殺事件をモチーフとした、WANDERING PARTYの芝居『トータル・エクリプス』を見た時に、集合住宅のイメージが印象に残ったのがきっかけです。畳のサイズやレイアウトなど、ほぼ定型の部屋からなり、そのなかに存在する家具などがささいな個性の差異を見せている。事件が起こった当時に私も集合住宅に住んでいました。『団地層』は団地をタテに切った断面で、『団断』は団地をえぐるように切った断面を見せています。

『団地層』Courtesy the Artist and Gallery Koyanagi
豊田商事事件は、高齢者に被害者が多かった悪徳商法事件ですね。テレビ中継で、主犯格の会長が住む集合住宅の部屋の前に記者が大勢いたなか、乗り込んだ男に会長が刺殺されてしまった。
1985年に32歳で刺殺された永野一男会長は、「ポスト団塊の世代」にあたります。私たち70年代生まれのように、団塊の世代を意識させられ、もがいていたんじゃないかと。永野会長は、今だったら六本木ヒルズのようなところに住んでいそうなのに、素朴な集合住宅に住んでいた。嘘をホントに見せるために、パーティーを開いたり、コマーシャルをしたり、社員やアルバイトにも高給を払っていたんです。『団断』の中に出てくる、血の付いたベッドのある部屋は、永野会長の部屋で、小さなレースのテーブルクロスも実際にあったもの。悪事ではあるけれども、実は器が小さく、個人で戦って空回りしていく様には、ある意味共感できるところもあります。また、会長を見殺しにしたと責められることになった記者達も20代後半から30代前半の人が多かったそうです。同じ団地に住んでいる人も、隣人のことを知らない。手を伸ばしたら届く場所にいるのに、メディアの情報を通じて知るという、妙な関係性ですね。

『団断』(2009) Courtesy the Artist and Gallery Koyanagi
そうした団地の一室一室をのぞき見るような空間展示ですね。
ビジュアル的には見下ろすようなイメージなんだけど、倒れかかってくる団地を見上げるように体験する、感覚的に不思議な空間にしました。見ている人とスクリーンとの間にある何もない空っぽな空間も含めて、見る人に想像を膨らませてもらえれば。
洪水のようなシーンもあります。トイレや洗濯機など、水が流れて、配管の先くらいはつながっているんだよなと思いました。
ああ(笑)。水については『にっぽんの湯屋』でも意識していたと思うんですが、『真夜中の海』という作品以降、水が流れていく方向性も意識するようになったんです。流動的という意味もあるし、重力に従って流れるということは、勾配があるということも想像できる。平面であっても、水の方向性を描くことで視線の流れを作ることができます。『公衆便女』の、亀が赤ちゃんを乗せて流れていく場面では、見えていないその先の空間を想像させたかった。『dolefullhouse』では、水位がいったん上がってから下がっていくことで、世界の区切りのようなものを表現したつもりです。水位が上がって下がるということは、水があふれたか、穴が空いて流れ出たか、何かが起こったと想像できる。今回の展覧会の、入れ子状のイメージというのは、そのときから意識していたことです。
導線としては展覧会のスタートにあたる右側の部屋が、吉田修一さんの新聞小説『悪人』の挿画の世界。ここは、現代社会を映し出しているようです。
吉田さんの小説『悪人』は、社会を意識した作品で、空気を描いていくことで「人型」を浮き上がらせるような、彫刻的な三次元的世界であると感じました。私の挿画は、その三次元的世界から、断面を切り出していく二次元的平面の世界です。また、小説では、社会のなかで翻弄されていく裕一が主人公ですが、私は今回、裕一と関係を持つ人物の一人、金子美保が自身に近いと感じて『油断髪』を制作しました。
『悪人』(部分)2006-2007年 Courtesy the Artist and Gallery Koyanagi
『悪人』(部分)2006-2007年 Installation View
『油断髪』Courtesy the Artist and Gallery Koyanagi
そして、『団断』の左側の部屋に『ちぎれちぎれ』から始まる、個の内面の世界があります。
『団断』は、社会の中にいくつも存在する世界であり、『ちぎれちぎれ』は、その集合住宅の一室に存在する無名の人=「人間」という世界です。「個」の想像し得る世界は、「社会」を凌駕する大きな世界を作りあげる可能性を持っている。身体的な、細胞レベルから、次の瞬間に広大な空を感じるような世界観に誘います。
「社会」と「個」の世界が向かい合いつつ、混ざり合っていくようにも感じます。『ちぎれちぎれ』で、雲が流れていくように。
これは雲じゃなくてもいいんです。私はいま、浅間山の目の前に住んでいるんですが、ずっと煙が出ているんですよ。すごく美しいんだけど、脅威になることもあり得る。その変化していく、空にたなびくものとしてのイメージ。空という広いイメージ、その空ではあり得ないことが起こっている。

(左)『ちぎれちぎれ』(イメージ)2009年、(右) 『ちぎれちぎれ』Installation View 2009年 Courtesy the Artist and Gallery Koyanagi
次の『BLOW』では、人体が植物と重なり合っていきますね。これまで、植物は、花札のモチーフでしか描いていなかったような。
そう、印刷されたもの、デザインされたものしか描いたことがなかったんです。軽井沢に移り、周囲を草木に囲まれるような生活になってから生きている花を意識し始めました。自然の中には、おどろおどろしい空間がぽっと存在したり、手入れされたような空間があったり。母が山野草を植えているんですが、期待に応えて咲いてくれることもあれば、まったく咲かないこともある。人間との関係が生々しく伝わってくるんですよ。花が花を殺すみたいな、蔦に巻き付かれて死んでいる木とか、動物と近いような感じ。転がった死体がずっと置いてあって、散歩の度に見せられるような。
花の変化する時間を描いてもいるし、実感を伴っていますね。
そうじゃないと扱えないし、実感がないものは実感がないものとして扱わないと面白くなっていかないので。私にとっては「社会」というものが実感のわかないものです。
蔦とか竹とか、都市のなかにもまだ自然の強さが顔を出す瞬間があると思いますが。人体の中も動いているし。
そうですね。最近、体力の衰えを感じたりして(笑)、でも、どの臓器がどう悪いなんて自分でわからない。いつも持ち歩いているのに全然知らないので、見つめてみようと思って描きました。

『BLOW』2009年 Courtesy the Artist and Gallery Koyanagi
『ちぎれちぎれ』も『BLOW』も、鑑賞者の立ち位置が固定されていて、いっぺんに全体は見られない空間になっていますね。私たちは、常にそのようにものを見ているわけですが。
三次元のものを二次元に落とし込むような、三次元に広がっているのに二次元的に見させられる苦痛を感じてもらおうと思いました。
『ちぎれちぎれ』で、背格好も年代もバラバラな人たちが三列くらいに並んで見ていて、少しずつ入れ替わる姿を見ました。それが群像劇みたいで、単に体験型というのではなく、人間も入って成立している空間だと思いました。『BLOW』では、泡の中に入っていくような体感があり、そういう人の姿を外から眺めることもできる。全体を通じて、劇場的ですね。
彫刻的な作品として作られていながら、視点を限定してまた二次元に戻している。私にできることはこういうことかなと思います。彫刻を眺めるように空間を眺めるような体験をしてもらえれば。
手描きの線や浮世絵調の色もまた個性を表していますね。
『ちぎれちぎれ』では、人体は、鉛筆で描いたものにコンピュータで色調を合わせていき、それにペンで色付けしています。雲は、筆をばさばさにして陰を描き、鮹はモノクロのデッサン風の線と浮世絵の色を重ね合わせています。見た印象を変えたかったので。さらに、色の粒子を感じてもらえたらうれしい。些細なところでのせめぎ合いなんですが、それが複雑に絡み合い、個性になっていくと思っています。
『BLOW』2009年 Courtesy the Artist and Gallery Koyanagi
作家活動の継続自体を目的とせずに、「現在」を真摯に積み重ねてきた束芋。とはいえ、10年頑張れた人は、また10年頑張れると私は思っている。この先も、どんなふうになるのか楽しみな人だ。
Information
『束芋:断面の世代』は、3月3日まで横浜美術館で開催中。


























