|
74年大阪生まれ。80年にニューヨークへ移住。96年Parsons School of Designのファインアート科を卒業。バイシクルメッセンジャー(99-02年)というキャリアを持つ異色のアーティスト。25年間をニューヨークで過ごした後、04年に創作活動の場を東京に移す。彼にとって“創造=アート”とは、日常生活や創作を通じて意識化されたものを、幅広い表現方法で世の中に具現化していくことである。
contact
MADSAKI
URL:www.madsaki.com E-Mail:info@madsaki.com |
彼は言う、「俺が本当は何者なのか、まだ誰も知らない」と。それはなぜか。時にもてはやし、“クリエイター”なる謳い文句で称揚しておきながら、次の瞬間には路傍の糞扱い。まさにメディアの悪行、餓鬼道の業火。しかし、火傷ひとつ負わず、涼しい顔で彼は立っている。MADSAKI(マッドサキ)。ニューヨークで育ち、日本人唯一のハードコアメッセンジャーとして命を削り、独特すぎるペインティングやパフォーマンスを展開、アーティスト集団『バーンストーマーズ』に参加し、04年に帰国後はアンダーカバーのデザイナー、ジョニオ氏との合作展『Intermission』を堂々開催。と思いきや作風を一変、時にTシャツや靴からRYUKYUDISKOのジャケットアートワーク制作(デザインby KAZUKI氏)まで何でもありで、魂で絵筆を握り続ける男。世間の風聞にも泰然自若。ゆえに、メディアの売り言葉だけで計り知れるはずもない。その男に改めて問う。「お前は誰だ?」そのヒントがここにある。
Text:深沢慶太
MADSAKIさんはニューヨークで唯一、日本人のハードコア・バイクメッセンジャーとして活動していたことでも有名ですね。
そうだけど、一言いわせてもらうと、俺がフィックスを流行らせたと言っているのは日本の世の中の方だし、フィックスにのることがファッショナブルで流行になったりすることが、俺には全く意味が分んないよ。数年前、全く興味も示さなかった人達が、流行になったらそいつらみんな乗ってるし…。だいたい「ピストがブーム!」なんて言って、商売で適当なこと言ってブームを煽るんなら、次は一輪車? 自転車について言えば、いじめっ子から逃れたい一心で、2歳半で補助輪なしで乗れるようになってから、自分の体の一部になった。
アメリカでアートの道に進んだ経緯を教えて下さい。
小学校1年生までは大阪で、夏休みからニュージャージーに引っ越した。日本では勉強ができなくて教室に残されたりしていたから、あのまま日本にいたら首を吊ってたかもしれない。本当にバカだったから、アメリカに行った後でも「ここは日本だ」と思ってた(笑)。現地の小学校では、日本では絵が下手な俺でも、クラスでいちばん絵がうまいと先生が褒めてくれて、英語を話せないぶん、絵でコミュニケートしていたね。アメリカ人は何かをキレイに描いたりするのは下手なんだけど、独創性というか、自分で何かを表現することのレベルは高いから、そういう意味ではいい環境だったね。アートの授業も最高にいい加減で、「これ描いてもいいけれども、描かなくてもいいよ」みたいな感じで、強制は絶対にしない。逆に好き勝手やってるほうが評価される。日本みたいにある物をキレイにそのまま描いても「so what?」って言われるよ(笑)。


アーティストとしての自覚を持ったのはいつからですか。
日本だと、アートの賞を受賞して初めて認められたりするみたいだけど、ニューヨークの冗談では、「俺はアーティストだ」と言うと、「みんなアーティストだよ」と言われるくらい、アーティストかそうでないかということは大した問題じゃない。
Persons School of Designに通っていたんだけど、アート界の政治的な仕組みとかを知れば知るほど、アートのことがイヤになってしまって、自分が何をしたいのかわからなくなってしまった。それで卒業してから9年間、ずっと迷子の状態で、01年にバーンストーマーズの連中と知り合ってはじめて、アート界とは別のスタンスでこうやって表現して生きていくことができるんだ、ということを知った。
バーンストーマーズとはどうやって知り合ったのでしょうか。
21歳の時にマイク・ミンと知り合って、それから10年くらい間が空いていたのに突然、電話がかかってきて「ブルックリンのD.U.M.B.O地区のギャラリーで絵を描いてるから、お前も描きに来い!」と言われて、行ってみたらリーダーのデイヴに、「絵が描けなければ、今ここで描けばいいじゃん!」と言われたのがきっかけだね。「床に自由に描いていいよ」と言われて、何を描いていいかわからなかった自分が悔しくて、よし、絵を描いて生きていこうと決意した。

極彩色のビニール紐で全身を覆ったキャラクター「チーフ・キモサベ」のパフォーマンスをやり始めたのもその頃ですか?
最初は96年。80年代のニューヨークは景気も治安も最悪な時代で、ホームレスの人がみんなブッ飛んだ格好をしてたんだけど、それを見て「大人になったらああなりたい」と母親に言っては、「絶対にやめろ」と言われてた(笑)。メッセンジャーも、同じく80年代に黒人たちがカバンを背負って自転車で走っているのを見て憧れた。その2つの夢は絶対に実現させようと心に誓って、一応、実現させたのかな。
チーフ・キモサベは、あの格好で街を歩いたり、ブームボックスを持ってアフリカ・バンバータ をかけながら地下鉄に乗ったりしたけれど、やってみると最高に気持ちよかった。道ばたで声を掛けられたり、いちばん嬉しかったのは市バスの運転手がバスを止めて運転席から降りてきて、「もうNYにはお前みたいなやつはいないと思っていたよ、NYを盛り上げてくれてありがとう!」って握手を求めてきたこと。つまり街をステージとして、あの姿で歩く行為それ自体がアートというわけ。
日本でもあの格好で目黒川の川底を歩いたりしていましたね。
でも最近はやってない。本当は恥ずかしいからあんな格好で歩きたくないんだけど(笑)。じつは東京駅の駅前、出社前のラッシュアワーの横断歩道であの格好で立っているのを撮影したんだけど、誰一人としてこっちを見ようとしない。アメリカと日本はそういう意味でもぜんぜん違うよね。
日本に拠点を移したのには、9.11の影響もあったんでしょうか。
9.11で景気が一気に崩壊して、メッセンジャーの仕事がなくなったし、NYのカルチャーもダメになったことはあると思う。でも、その直前にバーンストーマーズと出会ったということが大きなきっかけだね。でもその頃、ESPOとかTWISTたちのグラフィティがアート界で話題になったのは事実だけど、バーンストーマーズにしても、日本だと“ストリート”って言われるわけでしょう。俺、ストリートっていう言葉が大嫌いなんだよね。アメリカにはない言葉だし、日本のメディアは本当にハイプだと思うよ。だいたいバーンストーマーズはいわゆるグラフィティのクルーとは違って、個人主義の集まりだから。とにかく、絵を描いていくことを決意してから日本と向こうを往復するようになって、04年に帰国したんだ。

アンダーカバーのジョニオ氏との合作展『Intermission』について教えて下さい。
いわゆる絵を描くということに区切りをつけた展覧会だったね。あの頃までは感情や反抗で絵を描いていた。でも、その方向で限界を感じたこともあり、展覧会のあと1年くらいまったく絵を描くのをやめていたけれども、今は情熱ではない部分で絵を描いている。今の作品には「SUNSEX」と「CRACK」という2つのシリーズがあって、それぞれ歴史と、今の時代をテーマにしているけれども、スケッチのことを自分でも「製図」と呼んでいるくらいで、1枚の絵を描くのに30枚くらいスケッチをしているし、建築家のような意識で描いている。
より思想的な行為に近づいた、ということでしょうか?
思想なのかな…。自分でもわからない。以前とは正反対の描き方で、描かない時はまったく描いてないし、それでもぜんぜん焦らないし…。欲とか地位とか名誉とかそういうものにまつわる感情とか、どうでもいい。人に対してどうこう言うつもりはぜんぜんないし、自分から営業もしていないし。そもそも自分で自分のことを絵描きだと思っていない。だからブログを書くことも、チャリンコに乗ることも自分の中では何の分け隔てもなくアートなんだよ。自分の人生をどのように創り上げていくか、それ自体がアートなんだよ。


(左)SUNSEX、(右)SUNSEXの製図
今後の予定を教えて下さい。
12月14日から池尻大橋で個展やります。元々は精米所だった、高さが7mもある空間で、日本で初めての本格的な個展になると思う。でも、どんな展示になるかは自分でも知らない…(笑)。だいたい、みんな俺のこと何者だかわかってないと思うし。未だにメッセンジャーやってると思ってる人もいる。だから展示を見に来たら俺のことが、もっとわからなくなると思う(笑)。というか、今はまだそれしか言いようがないんだよね…(汗)。要するに、何でもアリだってことなんだよ。
































